どうも。ヨシカワです。
最近、ようやく、弁護士放送ウェブページにもコメントが寄せられるようになりました。しかし、ヨシカワがあまり弁護士放送ウェブページを訪れないという結果、あまりウェブページの更新が行われていません。すみません。
さて、コメント欄にて、刑罰の目的に「応報」が含まれるのはおかしいのではないかとの趣旨の質問をいただきましたので、以下において、犯罪の目的に「応報」が含まれるか否かについて説明させていただきます。興味のある方はご確認ください。
まず、犯罪の本質をどのように把握するかという点に関し、人間には自由意思があり自己の行動についてもその理性的判断により選択できるとする考え(非決定論)と、人間に自由意思があるとするのは幻想であり、その行動は遺伝的素質と社会的環境により支配され決定し尽くされているという考え(決定論)の二つの考え方があります。
非決定論の立場からは、犯罪は自由意思を有する人間がその理性的選択に基づいて行ったものにほかならないから、犯罪に対する評価も、端的に、外部に表れた犯人の行為及びその結果に対して行えばよいと考えられます。
このような考えからすると、犯罪は、自由な意思決定に基づいた行為であるから、道徳的な非難の対象となり、これに対する当然の報いとして刑罰は科されるということになります(応報主義)。また、一般予防も、自由意思を有する一般人を想定して初めて可能である(一般予防主義)との考え方に結びつきやすいのです。
一方、決定論の立場からは、犯罪行為は、遺伝的素質や社会環境により必然的に生起する現象であるから、犯罪に対する評価も、外部に表れた犯人の行動よりも、むしろ犯人の持つ社会的な危険性に対して行わなければならないと考えることになります。
この立場に立つと、犯罪の本質は犯人の社会的危険性にあるのだから、刑罰も犯人の社会的危険性から社会を防衛するために、犯人を隔離し、又は教育・改善することを目的として科されるべきである(特別予防主義)ということになります。
以上のような、人間の自由意思をどう捉えるかという問題に関して、現在の裁判実務では、「人間は、素質と環境とに影響を受けながらも、なお限られた範囲内で、主体的に自己の行動を選択する自由を有している。」と考えられています(相対的意思自由論)。実務では、人間が、犯罪行為に関しても、遺伝的素質や社会的環境の影響を免れ難いことは、一卵性双生児に関する犯罪学的研究や犯罪社会の研究結果により実証されており(私は、詳しい内容は知りませんが・・・)、この点において、完全な理性的な人間像を刑法の基礎にすえることはできないけれども、人間が素質と環境とに完全に支配されているとするのも、正当とは思えないと考えられているのです。
このように、実務は、人間の自由意思を一応肯定する立場に立っていますので、刑罰理論に関しても、応報主義に基本が置かれ、過去の違法な行為に対する応報として犯人に苦痛(刑罰)を加えることが、人間社会あるいは人間性本然の強い要求であってそれがなければその社会は存続し得ないと考えられていると思われます。裁判官は、刑の量定を行うに当たっては、応報的な考慮(犯罪の重さと刑の量との均衡)をもとに、教育的な考慮(本人の改善、更生)を行い、その他の一般予防等をも加味しながら、具体的な宣告刑を決定しているのでしょう。